有島武郎と「白水会」の百年(岩内町郷土館)

今年が有島農場解放百年であることは、すでに何度もご案内いたしておりました。
そして、農場解放を宣言した1922年7月18日の前日、有島武郎は木田金次郎に誘われて岩内に滞留し、岩内の多くの人たちと交流しています。
その7月17日、有島武郎と交流した若者を中心に「白水会」が結成され、その後の岩内の文化を大きく盛り上げました。
この「白水会」もまた、今年が百年を迎えるのです。
(土香る会では、百年記念事業として「白水会記録会計」を編集中です)

その「白水会」と有島武郎の繋がりをテーマにした企画展、「有島武郎と「白水会」の百年」が、岩内町郷土舘で開催されています。
規模は小さい企画展ですが、素晴らしい内容です。

6/12までです。
そのポスターと会場に掲示されていた説明パネルからの引用を、紹介します。

白水会の活動
岩内町郷土舘

 大正デモクラシーで育った当時の全国の青年の多くは、有島武郎の生き方や思想に共感して、あちこちに「有島研究会」的なサークルがあったようです。その中の一つが岩内にもあり、サークルの名前を「白水会(はくすいかい)」と呼びました。

この白水は有島武郎の個人雑誌「泉」を上下半分に分けたことに由来し、1922(大正12)年に有島が岩内を訪れたことをきっかけにして誕生します。

この白水会は他のサークルとは一味違ったものでした。というのは、この中に有島の名作『生まれ出づる悩み』の主人公(木本青年)のモデル、木田金次郎がいたことです。岩内での「泉」の購読者が63名もいたというのも、それを表しています。

また、会の中心人物に佐藤彌十郎がいたことも会の性格・運動に大きな影響を与えます。当初11名で始まった会は、その後徐々に会員を増やしていき、有島の研究はもとより、芸術文化・政治・近代思想の啓蒙団体として、現代の岩内文化に大きな影響を与えます。

この影響の一つが、催しをしたら必ず入場料を頂く、という考えです。今では常識になっていますが、入場料の設定は人を集めるためにも有効な手段である、という考えは、当時の地方としては珍しいことであったと思っています。

岩内町は、漁業と水産加工で生きてきた「魚臭い」町ですが、一種独特な文化(美術館2館、郷土館1館、半世紀以上活動を続けているアマチュア演劇、そして混声・女声・高齢者と合唱団が3団体、江戸時代から続く俳句活動、体育館がないのに文化センターがある等など)、があると思っています。 

その礎を築いたのが、この白水会の活動でした。